6 白羊宮
アフロディーテとアルヘナが目指す教皇宮へたどり着くためには己の足で教皇宮へ至る十二の宮を通らなければならない。第一の宮である白羊宮でさっそくその主に見咎められた二人の前に、想像だにしなかった人物が現れた。
「アイオロス…いえ、教皇。何故ここへ。」
アフロディーテに付けさせられた仮面越しに、アルヘナは教皇と呼ばれた男を見上げた。アルヘナから見ればアフロディーテも、そして今会ったばかりのムウという人物も十分長身であったが、最後に現れた人物は更に長身で本当に見上げなければならなかった。しかも、真っ白な大仰なローブを纏っていて自分の前にまるで白い壁が現れたようだった。
呆然と見上げていると、その白い壁はゆっくりと自分の方へ近づいてくる。ただならない威圧感に仮面を付けた少年は我知らず後ずさっていた。
そこで初めてアイオロスは少年の戸惑いに気づき、彼本来の柔らかい笑顔を見せた。精悍な美丈夫は白いローブとは対照的に浅黒く日焼けして、登ってきた太陽が彼の髪に映えてキラキラと金褐色に光って見えた。
「話は先日サガから聞いている。君が聖闘士になるためにここに来た少年だね。」
そう切り出したアイオロスに、驚いたのはムウとアフロディーテだった。
「聖闘士…?教皇、どういうことですか。」
「ああ、ムウ。その教皇という呼び方はやめてくれないか。お前たちにまで名前で呼ばれなくなったら私はそのうち自分の名前を忘れてしまいそうだ。」
「アイオロス…。」
おどけてそう返したアイオロスに、先ほどから厳しい表情を崩さなかったムウが肩の力を抜いて苦笑した。
「聖闘士、と仰いましたか、今。」
アフロディーテの問いはまだ十分戸惑いを含んでいたが、アイオロスは意に介さない風に頷いた。
「正しくは聖闘士候補、だがな。サガから聞いていないのか?それでお前が連れてきたのかと。」
「いえ、私は…。」
サガの変調を知るために独断で彼が任務で赴いた村まで行き、半ば拝み倒されるようにして勢いで連れてきた筈だったが、もとよりサガがこの少年を聖域に迎えるつもりだったとは思わなかった。
言い淀むアフロディーテに、アイオロスはそれ以上の理由を追及しなかった。その興味は、最初から彼の連れてきた少年に注がれていた。
「私はアイオロス。君の名を教えてくれないか?…出来ればその仮面を取って。」
言われて初めて、アルヘナはまだ自分が一言も発していないことに気が付いた。
「教皇の仰せに従え。」
アフロディーテが振り返り許可を出してくれたので、彼はやっとその付け慣れない息苦しい仮面を外すことが出来た。
仮面を付けていると当然だがかなり視界が制限される。目に入る光量が増えて眩しくて目を細めた。次第にその明るさに慣れてくると、やっと目の前の人物たちをまじまじと見る余裕が生まれた。
果たして、目の前の教皇と呼ばれた長身の男と、長い髪を一つに束ねた色白の男が見せた反応に、アルヘナは強い既視感を覚えた。サガ、そしてアフロディーテが自分に見せた眼の中にある驚愕の色。それとほぼ同じものを確かに彼らの中に感じた。それをその場で何故と問えなかったのは、二人が感情を表に出さなかったからだった。アイオロスは一瞬でその驚愕の色を消し、何事もないようにアルヘナに手を差し出した。
「名はなんという?」
「あ…アルヘナ…。」
そうか、と言うと、アイオロスは再びにこりと微笑んでアルヘナの手を強く握り返した。
「ここは聖域。君の母上を弔ったサガもここの住人だ。君は知らないと思うが、ここは女神アテナをお守りするためのいわば要塞のような都市だ。だから聖域に関わりのない者の出入りを制限してもいる。何故、君はここに来た?」
言われている意味の半分もまだ飲み込めてはいなかったが、アルヘナが遠い故郷を離れてここにきた目的は一つしかなかった。
「俺…サガ様にもう一度お礼が言いたかった…それでアフロディーテ様に頼んでここへ…。」
たどたどしく呟いた声は蚊の鳴くような音量だったに違いないが、アイオロスは途中で遮る事もなくそれを聞き終えると頷いた。」
「了解した。私が君の聖域入りを許可する。サガに会いに行くといいだろう。」
アイオロスは、アルヘナに一枚の札のようなものを差し出した。
「聖域の通行証のようなものだ。私の印が入っている。これを見せれば大抵の場所へ入れるだろう。」
「…あ、ありがとうございます。」
アイオロスは一回り小さい少年に頷くと、用は済んだとばかりに踵を返した。
「早く君の顔が見たくて思わず白羊宮まで降りて来てしまった。勝手に教皇宮を出てきたのでそろそろ追手がここまで来てしまいそうだな。私は戻る。」
「やはりそうでしたか…どうりで誰も供がいないと思った。」
半ば諦めたようにムウがため息をつく。
立場が変わればアイオロスを取り巻く環境も変化していたが、この若い教皇はそうした因習を物ともせずに行動するところがあった。
「私はシオン様のような教皇にはなれないな。あの威厳は、真似出来ない。」
「真似するふりをするくらいは、あなたはするべきだと思いますがね。」
ムウの意見に肩を竦めて来た道を戻ろうとしたアイオロスが、ふと大事なことを思いだしたというように足を止めた。
「そうだ、ムウ。」
「…なんでしょうか、教皇。」
「アイオロス。」
わざわざ言い直した彼に従って、ムウも彼をそう呼んだ。
「…アイオロス。」
「双子座の聖衣を、近く双児宮に運んでくれ。なんなら人を寄越すが。」
言われた事の重大さにムウは返答を飲み込んだ。もう1年近く、主を喪った聖衣は白羊宮の奥にしまわれていたからだ。
「…それは、サガに聖衣を返すということですか。」
「他に誰もいないだろう。近く、正式にサガが双子座として復帰することが決まった。」
アイオロスの口から出るという事は、それは既に女神も了承済みということだった。理由がどうであれ、聖衣が本来の持ち主に還ることは、ムウにとっても重荷が一つ減るということだ。
「了解しました…アイオロス、一つ質問を。」
「なんだ。」
「サガがそれを了承して?」
「無論だ。彼を差し置いて他に誰もあの聖衣を纏うものはいない。」
きっぱりと言い切ったアイオロスの口調はいつになく真剣さに満ちていた。
「御意…。」
恭しく頭を下げたムウに頷いて、最後にアイオロスはアルヘナに目をやった。まだ自分もサガも黄金位を賜ったばかりの時期に、サガの傍らにあった姿に本当に良く似ている、と思った。気性は随分違うが、見た目の雰囲気はまるで過去に遡ったようにさえ思えた。
先日、サガが教皇宮で女神に言上したことをアイオロスは認めてはいなかったが、実際その人物の姿を見て腑に落ちた。
この少年はあまりに似ている。サガの弟に。サガが双子座を他の人間に、と言った時に女神に対して何を世迷言をと思わずにはいられなかった。しかし、この姿を見て得心した。サガがそう思うのも無理からぬと。勿論、思った事が現実になるわけではない。アイオロスにとっては、サガが彼の為に双子座に復帰する意思を持ったということこそが大事な事実だった。
この力を持たぬ少年一人が聖域に降り立ったところで、大河の水一滴、聖域に何かを及ぼすわけではなかった。
「アフロディーテ、彼の面倒をみてやってくれ。サガも手があけば会えるだろう。私も顔を合わす機会があれば伝えておく。」
「御意。」
「アルヘナ、また会おう。」
そう言い置いて、アイオロスは来た道を戻って行った。彼に渡された札はサガに会うための大事な許可証を貰ったと同じことで、アルヘナは改めてここへ来て良かったと思うのだった。先のことは分からないけれど、思い切ってここへ来て良かったのだと思えた。
見上げると、切り立った崖のような造りの十二宮がずっと天まで続いているかのようだった。
[2回]