3・聖域の使者
たった一人の肉親だった母が死んで、あっという間に一週間が過ぎた。身寄りの無い俺の為に毎日誰か代わる代わる村の人たちが食べ物を差し入れてくれたり、様子を見に来てくれたりして母と二人でいた時よりも忙しい程だった。
それでも、夜になると必ず一人になる。気を遣ってくれる村の人たちは、俺の家族になってくれるわけではなかった。家で夜一人になるとどうしても、孤独と不安に苛まれた。癖で、家の中にいたはずの母の姿を無意識に探してはもういないのだと確認する度に一人途方に暮れ泣く日々が続いた。
村の長が、当面は生活の心配はしなくていいと言ってくれたが、遠からず決断をしなければいけないことは子供の俺でも分かっていた。もとより、上の学校に行く金などない。そうなると、この村を出て大きい町へ働きに出なければ生きては行けないだろう。当座の食糧を買う金さえ持てば、アテネまで出ればなんとかなるのではないかと俺は考えていた。幸運な事に、俺は14という歳にしてはそれとは見えない大人びた外見をしていた。多分、18、上手くすれば20位に見てくれるかもしれない。寝床と食糧を与えてくれる仕事があればなんとかなる、と子供の浅はかさな思いつきで俺は自分を励ましていた。
この家を離れたくない気持ちは当然あった。物心ついてからずっと、母と俺はこの家で暮らしていたし、俺の全てが詰まっていた。でも、家の中で一人でいると母のことばかり思い出して女々しく泣く夜がずっと続くのかと思うと寂しさ以上の辛さが俺を苛んだ。生活を変えれば、大人になれるのかもしれない…
そんな風に思うのも、仕方のない事だったのかもしれない。
村の人は早く学校に戻るように勧めてくれたが、なかなかそういう気分にもなれず俺は無為に一日を過ごしていた。 母が毎日やっていた家のことを一人で片づけるだけでも大変だったし、母を亡くしたばかりの俺に強く物を言わない大人が殆どなのをいいことに、体よくサボっていたのだった。
毎日、母の墓に花を摘んで持って行った後に、森を抜けて見晴らしのいい丘に上がった。そこからは、村を出ていくための唯一つの道が遠くに続いているのが見えるのが好きで良く足を運んだ。
(あの人も、この道を通ってここに来たんだ。)
今でも思い出すと、夢のような光景だったと思う。サガと名乗った聖域の御使いは、彼自身が神様のように光り輝いていた。そして、村では見たこともない程に綺麗に整った顔をしていた。俺は自分の母が美人だと言われる度に心の中で自慢に思っていたが、母と彼は比べものにならない位に彼は綺麗な人間だったのだ。神様の使いというものはきっと皆そういうものなのだろう。顔形だけでなく、動作も声も、全てが洗練されて優美だった。後で聞いたが、彼は聖域の中でもとても地位の高い人なのだという。本当なら、こんな辺境の地に来るような人ではないと教えられて、ますます俺は不思議に思い、そして最初で最後一度きりの母の葬儀に聖域がそんな人を遣わしてくれたことに感謝した。
(アテネに行ったら、もしかしたら会えるのかもしれない…)
ぼんやりとそんな思いに囚われると、俺はアテネに出る不安よりも期待が湧き上がってきて仕方なかった。勿論、会えない確率の方が高いに違いないが、聖域はこの村よりもずっとアテネに近いのだという。だとすれば、聖域に行けば会えるのかもしれない。もう一度会って、母を天へ送ってくれた人にお礼が言いたかった。
ぼんやりとそんな事を考えていたら、遠い道の向こうから何かがこの村へ向かって来るのが見えた。俺はそれがあの人が乗ってきた馬車じゃないかと思い目を凝らした。もしかしたら、あの人がもう一度来てくれたのじゃないかとあり得ない事を一瞬で考えると俺は自然に村に向かって駆け出していた。
この機会を逃したらもう一生会うことは出来ないかもしれない。すれ違ってしまったら、そう思うと気が急いて、本当は帰り道にもう一度母の墓に寄ろうと思っていたのに一目散に墓地の前を駆け抜けていた。
息が上がるほど走り続けて村へ戻ると、広場はもう人が沢山集まっていてちょっとした騒ぎになっていた。俺はそれで彼が来たのだと確信して、あの見忘れようもない優雅な金髪と長身を探した。しかし、止められた馬車の中はもぬけの殻で、俺は彼がどこに行ってしまったのか探そうと踵を返した。
「おい、アル。お前に聖域からお客様が来たぞ。」
そう声を掛けられて、走りだそうとした俺は慌てて足を止めて振り返った。
「ど、どこにいるんだ?」
「お前の家の方に向かって歩いて行った。」
「すごい美形だった。女だろ、あれ?」
「いや、あんなに背の高い女は…あれが男でも驚くけど。」
何人かの幼馴染が俺を置き去りにして盛り上がっていたが、俺はそのやりとりでサガが戻ってきたと確信していた。もう奴らを置き去りにして、一目散に家に向かって走り出していた。
その人は、俺の家の中で俺を待っていた。慌てて家の扉を開けた俺に背中を向けるようにして椅子に座っていたその人は、扉の開く音で振り返った。
「…サガ、様、じゃない…?」
間の抜けた声を呆然と呟いた俺を振り返った人は、サガとは違う明るいはちみつのような金髪だった。サガはもっと薄い色の金髪だったし、何よりも顔の造作が一目でそれと分かるくらいに違うのだった。それがサガでなかったことは十分俺を落胆させたが、それよりも突然現れたこの聖域の使者という人がサガとはまた違ったケタ違いの美形であることも再び俺を驚かせた。
しかし椅子から立ち上がった人物は、俺以上に驚いた表情を凍り付かせて目を見開くようにして俺を見ていた。
「何故…お前がここに…?いや、違う。君は、いったい…。」
その人の声は明らかに動揺に震えていた。顔色を失うように青ざめたその人が後ろによろけて椅子に躓きそうになったのを見て、俺は咄嗟に支えようと走り寄って腕を伸ばした。
何か信じられないものでも見たように俺を凝視した人が、喘ぐように「カノン…。」と呟いたのを俺は聞き逃さなかった。しかし、聞いた所で全く聞き覚えのない名前であることも確かだった。俺の記憶の引き出しのどこにも、その名前が仕舞われている場所はなかった。
「…俺は、カノンっていう名前じゃないけど。」
誰かと間違えているのか。ようやくそこに思い至って、俺はサガではない聖域の使者にそう訊いてみた。
「カノン…では、ない。」
まだどこか疑うように声が迷うように揺れているその人をもう一度椅子に座らせて、俺はその傍らに膝を付いた。
「カノンっていう人に、俺が似ている?」
そう問うた俺の言葉に、その人はようやく自分が酷い勘違いをしたのだと理解してどっと脱力したのが分かった。
「そうか、君の母上を、サガが弔ったのか…。」
「はい、だから俺、サガ様がまた来てくれたんだと思って。ずっとお礼が言いたくて…そしたら。」
家にいたのは全くの知らない人物だった。しかも、会った途端に誰か知らない人と自分を見間違えている。サガではないかと期待した分だけ、落胆も大きかった。自分でも想像以上に落ち込んで沈んでいると、聖域の使者は今度は落ち着きを取り戻した様子で立ち上がり、自らの非礼を詫びるために俺の手をとって頭を下げた。
「母上を亡くされたばかりなのに突然こうして押しかけて騒がせて…本当に申し訳ない。非礼を心からお詫びする。私は聖域のアフロディーテ。君の母上を弔った双子座のサガの、私は関係者だ。」
「双子座…?」
そう言われてもピンと来ない俺は、オウムのように問い返してアフロディーテと名乗った人の顔をまじまじと見つめ直した。至近距離で目を合わせるには、正直その人は美人過ぎて目を見れない程だった。声で男だとは分かったが、顔の作りがサガとはまた違ったまるで女性的な美しさに縁どられていた。しかし彼の物腰はまるで紳士で、彼は丁寧に詫びると切ない表情を隠さずにまた俺の顔をじっと見つめた。
「失礼なことを訊くが…君はいくつだ、名は?」
サガにも同じようなことを訊かれたな、と思ったが、俺はアルヘナという名前であること、歳は14になったばかりであることを正直に伝えた。彼は聞いている間中厳しい表情を崩さなかったが、最後に子供の俺に丁寧に礼を尽くしてくれた。
「正直に教えてくれて、感謝する。今回のことは、私の一存でしたことだが、君がサガにもう一度会いたいというなら私が取り計らおう。」
「ほ、本当に…?俺、お礼が言いたくて…。」
「サガは礼など必要とはしないだろうが、君が自分の口から伝えたいというならそう計らおう。多分…彼も君に会いたいと言うだろう。」
その最後の言葉の意味は俺には全く分からなかったが、アフロディーテという人がくれた提案は俺にはかけがえのないチャンスに違いなかった。ダメ元でと思って、俺は言い募った。
「サガ様に会いに行きたい。俺を、聖域に連れて行ってもらえませんか?」
図々しいのを承知でそう言った俺を見て、一瞬アフロディーテの表情は迷うような色を見せたが、彼は頷いて手を伸ばした。
「いいだろう、私が君の聖域入りを特別に許可する。私と一緒に来るか、アルヘナ。」
断る理由は何もなかった。俺は後先も考えずに頷くと、彼の気が変わらない内にと小さなかばんに質素な旅支度を詰め込んで家を後にした。その時、この先この家に戻ることがもうないとは思いもせずに、ただあの光り輝く人にもう一度会いたい、という思いだけで、俺はアフロディーテが乗ってきた馬車に乗り込んで村を後にした。
次第に遠くなっていく村の灯りを見つめながら、俺はただじっと馬車の中で身動きもせずにいた。アフロディーテはあれやこれやと俺に話しかけようとはしなかったが、時々俺をじっと見ては何か物憂げに視線を逸らした。俺は居たたまれなくなって、とうとう自分から彼に話しかけた。
「あの…聞いてもいいですか。」
「なんだろうか。」
「サガ様も、あなたも、どうして光っているんですか?聖域の人はみんな、そうなんですか。」
俺の問いに驚いたようにアフロディーテは眉間に皺を寄せた。
「光っている…?」
「…?ええ。身体の周りがこう、うっすら光を纏ってるみたいにキラキラして。俺、サガ様を見た時に本当の神様の使いが来たって思ったのは、彼自身が光って見えたから。」
疑わしげな表情を崩さずに聞いていたアフロディーテは、驚いたように目を見開いた。どんな表情でも美しく見えるから聖域の人は凄い、と俺は彼の度を越した美形にまじまじと見入りながら答えた。
「私も、そう見えるのか。」
「…サガ様とは少し感じの違う光だけれど、見える。」
「君は…小宇宙に目覚めているのか…?」
「コスモ…?」
彼の口から発せられる全てにクエスチョンマークを乗せる俺に、聞いても詮無いと思ったのかアフロディーテは「いや、いい。聖域に着くのは朝だ、休むといい。」と言い置いてもう俺に話しかけようとはしなかった。
目が冴えている間中、俺は馬車の窓から見える星空を眺めていた。黄道十二星座のいくつかも、天に見えた。おとぎ話に聞かされた聖域と女神の物語には必ず十二星座の神様の使いがいて、鎧を着て女神様のために戦うのだと聞かされていた。俺の星座は双子座だったから、空を見上げた時に双子座がどこにあるかは分かっていた。アフロディーテが教えてくれた、サガは双子座なのだという。そんな共通点があったことが嬉しくて、俺はサガに会えたら俺が双子座なのだということを教えたい、と思った。
馬車が規則的なリズムで揺られていくのに、俺はいつの間にか眠っていたらしい。サガの夢を見ていた。あの美しい人は、俺を見つけるとまるで俺の母と同じような優しい表情で「おかえり。」と微笑んだ。夢なのに俺はちょっとおかしい、と夢の中でこれが夢だということを理解した。サガはたった一度あっただけの他人で、家族ではない。「おかえり。」というのはおかしい話だ。だがサガはまるで昔からずっと知っていたかのように俺に向かって歩いてくると、俺を「カノン。」と呼んだ。
カノンという人を俺は知らない。俺はカノンではないのに、サガは俺を忘れてしまったかのように夢の中で俺を「カノン」と呼び続けた。
カノンは一体誰なのだろう。夢なのに、俺はそれをどうしても知りたくなった。夢は醒めようとしてもなかなか自分の意思で醒めることは出来ない。夢から醒めたら、カノンが誰なのか訊いてみよう。そう思いながら、俺は夢の中でサガの隣に寝そべって空を見上げていた。何故かそれが酷く懐かしいことのような気がして、俺がサガを見ると、サガは俺を見てまた「カノン。」と呼んだ。それが酷く切なく響いて否定できずにいると、サガは「これが夢なら、醒めないでいてくれ。」と呟いた。どうしてそんな悲しい目で俺を見るの、そう言いたかったが声にはならず、俺は慰めようと彼に手を伸ばした。
夢が覚めるまで、俺はサガを夢の中で抱きしめていた。
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