2・双魚宮
目的の人物が長い石段を登って来る姿を認めて、アフロディーテは彼を出迎えるために足早に階段を駆け下りた。
「サガ!」
呼びかけに気づいた人影が、アフロディーテの姿を認めて足を止めた。季節に合わないサガの薄着に自然眉間に皺が寄り、唇がサガへの小言を綴ろうとしたが、その前に困ったように微笑まれて口を噤んだ。
「どうしたのだアフロディーテ、まだ寒いのに宮の外などに出て。」
反対にそう言われて、アフロディーテはサガの手をとった。指の先まで冷えていた。
「あなたが遠い村まで葬儀に出向いたと聞いて待っていた。身体中冷えているではないですか、こんな薄着で。」
意に介した風もなく、サガはアフロディーテに手を握らせたまま微笑んだ。
「葬儀はこの法衣と決まっている。それに聖闘士にとって寒さなど意味がない。お前が私を心配などしなくていいのだ。」
サガの言葉に嘘はないが、半分本当で半分は嘘だった。アフロディーテがサガの身を案じるのはそれなりの理由があってのことだった。
「とにかく私の宮へ。温かいものを用意しています。部屋も暖めてある。」
サガの唇がうっすらと紫色になっているのを認めて、アフロディーテは早口でそう勧めた。昔からアフロディーテはサガが自分の強請りごとに弱いことを知っていた。自分がそう勧めれば彼は断れない。少し前にシュラにも言い含めたのだが、サガのこの様子ではシュラが磨羯宮でサガを引き留める事に失敗したのは明白だった。僚友の不手際を胸の内で罵って、アフロディーテは縋るようにサガに言い募った。だが、サガは小さく首を振ると、それまで見せたことがないような表情で微笑んだ。
「すまないが、私はこのまま教皇宮へ上がる。教皇に報告申し上げたい喫緊の件があるのだ。」
「サガ…?」
サガの瞳に長く喪われていた光を認めて、言い知れぬ不安にアフロディーテは呟いた。そして、すぐに上に控える教皇の不在を思い出し慌てて言い添えた。
「アイオロス…いや、教皇は不在だ。女神と共に神殿にて瞑想に入られている。」
言われてようやくそれを思い出したというように、サガは目を瞬かせた。
「そうか…それでは終わるまで私は控えの間で待とう。教皇と一緒におられるなら、女神にも申し上げたい。」
「どうしたのです、サガ。そんな真似をせずともあなたが必要とあらば教皇は全ての先約を押してあなたに会うでしょう。遣いの者が教皇宮から連絡を寄越すまで、私の宮で身体を温めて休むべきだ。…こんなに身体が冷えて。あなたはいつも私に心配ばかりさせる自覚を持つべきです。」
握りしめたサガの手は、一年前と比べてもはっきりと分かるように痩せて肉が落ちていた。足元まで隠す長い法衣で誤魔化してはいるが、痩せた肩や頬のライン、指までは隠せない。このままこの体を抱きかかえて、双魚宮へ運んでしまおうか、と埒もない考えに取り付かれそうになったアフロディーテの頬に、痩せた指が伸びて滑らかな肌を撫でた。
「…そんな顔をしないでくれ。険しい顔はお前には似合わない。」
本気で困ったように呟いたサガに、アフロディーテは言い募った。
「そう思うなら私の言う通りに?教皇が戻ったら私の責任であなたにお知らせしましょう。」
サガに言うことを訊かせる時には、これくらい強く出なければダメなのだと経験から知っていた。サガは見た目の穏やかな風貌に依らず内面は酷く頑固だ。こちらが強く出なければサガに我を押し切られてしまうのだ。
すぐには頷かず、サガはここからはまだ見えない教皇宮の方角を見上げた。
「瞑想はいつ終わる予定だろうか。」
「全ては女神次第でしょう…しかし、いつかは終わる。あなたはただ待っていればいい。」
サガが教皇となったアイオロスや女神にこれほど火急の要件を持ち込むことはまずないと言って良かった。最近では自宮にも寄り付かず、アイオロスの下に自ら付き従って他の者と同列に扱って欲しいなどと言っている。本来サガが手を付けるような仕事ではない案件まで奔走していることはアフロディーテも知っていた。今日、聖域を信仰する村に死人が出て弔いへ向かったというのも、およそサガの立場には似つかわしくない下級神官の任務だった。
女神のためにどんな仕事も厭わないというサガの姿勢は立派なものだが、聖域には上下関係と秩序が厳然としてある。黄金聖闘士がその他の者の仕事の領分に手を付けては、そのうち表立った不満と批判が出かねない。アフロディーテがそれをはっきりと口にしても、サガは微笑んでいつも同じ言葉を繰り返した。「私は、もう双子座の黄金聖闘士ではない。その他一般の雑兵と同じ扱いでいいのだ。」と。
サガの気が変わらない内にと半ば手を引く勢いで双魚宮へ迎え入れたアフロディーテは、宮の警護の雑兵にサガがここに居る事を一切他言しないようにと言い含めて彼を通した部屋へ向かった。もとより、アフロディーテに逆らう者などこの宮にはいない。だが、暫くサガを休ませたい思いが、急な呼び出しを警戒する理由だった。
ドアを開けると、奥の暖炉の前に設えたソファにサガは言われた通りに座っていた。炎をぼんやりと見つめるサガは、痩せても彼の持つ生来の美しさは幾分も欠ける事無く、むしろ際立つようにアフロディーテには思えた。しかしその美しさはともすれば儚さすら見る者に抱かせる。それは次第に明確な危惧となって、アフロディーテは彼に似合わぬなりふり構わぬ様でサガの世話を焼くようになっていた。
「お茶の前に、食事でも?」
最初からそのつもりで用意させていたワゴンをサガの前に持ってきて、種類だけは多く揃えさせたのはこれだけあれば一つでもサガの気にいるものがあると思ってのことだ。しかしサガはそのどれにも手を伸ばそうとはせずに首を傾げた。
「…空腹ではないのだ、だから私に気を遣うことはない。」
体のいい断り文句を鵜呑みに受け入れるほど、この宮の主は彼との付き合いが短い訳ではなかった。
「そういって、何も食べてないのでしょう?あなたを見れば分かる。顔色も良くないし、食事をしている所を見たことがない。私の心配が杞憂というなら、何か口に入れてみせて下さい。」
アフロディーテの心配は正論だったが、当のサガは言われた事の半分も分かっていないように見えた。しかし、6歳も下の彼に逆らう気はないのか、目についた葡萄を一粒摘まむと口へと運んだ。その様をじっと見つめるアフロディーテの視線に気づいて、困ったように眉を下げた。
「…お前は私の親鳥のようだな。お前がいなければ、私は食事ひとつもまともに出来ないようだ。」
「完全な事実でしょう。食べられるなら、もっと栄養のあるものを。魚も肉も、あなたの好きなものは何でも用意させます。」
アフロディーテの真剣さにようやく気付いたように、サガの顔から表情が失われた。「では、食事の前に一杯だけ熱い紅茶が欲しい。」
サガ自身から言われる望みであれば、アフロディーテはなんでも良く聞いた。頷くと、ワゴンの上で手ずからティーポットに茶葉を入れ、熱湯を注ぎいれる。会話もなく黙ってアフロディーテの様を見ていたサガは、白磁のカップに注がれた黄金色の紅茶に口を付けるとほう、とため息をついた。
「お前の淹れる紅茶は、本当に美味しい。」
「望みとあれば、毎日でも。」
昔、サガが教皇宮の住人であった頃、アフロディーテはよくこうやってサガに紅茶を淹れてふるまっていた。昔と言ってもそれ程昔のことでもない。ほんの数年前のことだ。それでもそれはもう遠い昔のことであるように思えるほど、今の聖域とサガが君臨した頃の聖域は根本から変わってしまっていた。それを残念に思う気持ちはアフロディーテにはない。ただ、自分の敬愛するこの人が穏やかに幸せでいてくれさえすればいいのだ。
「アフロディーテ。」
カップをソーサーに戻したサガが、アフロディーテの名を呼んだ。サガの足元に膝まづいて見上げると、サガは最近見せる事の無かった微笑みを浮かべてアフロディーテの手を取った。
「私は、今日ある村で希望と出会った。」
「…希望、とは?」
サガの言葉の意味を測り兼ねて、アフロディーテはサガに説明を求めるように見上げた。彼にそういう顔をされたら、男女を問わず求めるままに何でも話してしまう魅力を備えていたが、それがサガには通用しないことをアフロディーテは良く理解していた。サガは、およそ美しいものに感情を左右されることがなかった。それは彼自身が稀な端麗な容姿に生まれついた所以かもしないし、生まれつき人間の美醜に不感症なのかもしれなかった。
サガがアフロディーテに弱い所があるとすればそれは幼い頃よりサガを慕い続けているという身内であるという一点だけで、それが唯一の武器であることを正確に理解してもいた。
サガは、歳の離れた弟を見るような目でアフロディーテを見つめると、少し熱っぽく語った。
「私にも、まだ生きる意味があるのかもしれない。それを私は見つけたのだ、アフロディーテ。だから、寒さも何も感じなかった。私はきっと、この為にこの身を生きながらえていたのかもしれない。」
まだ十分に冷たい指先からは、彼の感情の高ぶりを表すかの如く細かな震えが伝わってきた。
「私にもまだ、女神の為に生きる意味が…ある。」
どこか熱に浮かされたようにサガは呟いた。本当に熱があるのかも知れない、とアフロディーテは思い、「淹れ直しましょう。」と前置きしてサガのカップに新しい紅茶を注ぎいれた。
それを少しずつ口に運びながら、次第にサガの瞼が下がって来るのをアフロディーテは慎重に見守り、頃合いを見計らってサガの手からカップを取り上げるとそのままソファに横たわらせた。
「疲れたのでしょう、少しお休みなさい…。」
返す言葉もなくゆっくりとサガの瞼が閉じていくのを見ながら、アフロディーテは彼が仕込んだ微量の薬がサガを眠らせたことを呼吸で確認した。本当なら、この程度の薬で黄金聖闘士を眠らせることなど不可能だった。それが効いたということは、サガの力が衰えていることの何よりの証拠だった。薬で意識を奪われたサガの頬に落ちた髪をかき上げてやると、一年前よりも明らかに落ちた頬の肉が顎のラインを際立たせていた。目の周りも少しやつれた。美しさが損なわれないのはアフロディーテにとっては喜ばしいことだったが、何よりも日に日にサガから生気が失われて行くことが耐えられないことだった。
周囲の声をよそに依然と変わらずすべての時間を任務につぎ込もうとする姿勢には早くから心配の声が上がったが、本人が自覚なく諫言を聞こうとしない。熱心に心配していたアフロディーテの僚友も、早くにまずデスマスクがキレて匙を投げた。「倒れるまで放っておけ。」と言い捨てた言葉が本心でないことは理解していたが、アフロディーテはサガが倒れるまで待ってはいられなかった。サガの姿勢が、彼が自分の生を手離したがっているようにしか見えなかったからだ。
サガはいつも遠くばかりを見ている。
膨大な任務が途切れた時、一人佇んで空を眺めているサガの姿は、既にこの世界を見ていないようでアフロディーテは怖かった。理由は分かっている。1年前、サガは誰も替わることの出来ない存在を永遠に喪ったのだった。それから一度も、サガから彼の名前を聞いたことがない。サガは命を落とした双子の弟の代わりに再び双子座の地位に就くことを頑なに拒み続けていた。
意識のない彼の髪を指で梳いて、アフロディーテはじっとその顔を見つめた。どれだけ神々はこの人に悲しみと試練を与えれば気が済むのだろう。女神に直訴したい気持ちを呑み込んで、ずっとサガを見守って来た。身代わりになれないことは分かっているが、ただサガが衰弱していくのを見ていくことは耐えられそうになかった。
今日、初めてサガが微笑んでいる姿を見て、本当は泣きそうに嬉しかった。それをもたらしたのが自分ではないにしても、サガが少しでも回復するのなら、誰にでも縋りたい。
「何があったのです…サガ…。」
名前も憶えていないような貧しい村に赴いたサガに一体何があったというのだろう。調べなければならないとアフロディーテは心に決めた。サガのためなら何でもする。そう決めたのだ。
今はただ、つかの間の安息を。幸せな夢をみて、この人が少しでも癒されますように。心からそう願って、アフロディーテはサガの髪をひと房とって口づけた。
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